2015年12月24日木曜日

『熊野三山巡礼』と『目醒めのヨーガ』 - 其の後編 -

熊野古道のある紀伊山地は山頭火の句のごとく、『 分け入っても分け入っても青い山 』が連なる山々を超えてゆく参詣道です。

一番高い峠が標高868Mと高くはありませんが、私の歩いた田辺市の下三栖から標高300Mに位置する那智大社までに、500M以上の峠が7つあります。参考*和歌山県街道マップ

標識や看板もあり、整備された歩き易い道ですが、熊野詣の盛んだった時代にはさぞかし大変な道中であったことは容易に察することができます。



" 紀伊山地の霊場と参拝道は、万物、生命の根源である自然や宇宙に対する畏敬を、山や森に宿る神仏への祈りというカタチで受け継いできた文化遺産である。"



古道にある看板に記されていました。


熊野信仰はそもそも縄文時代から続く、人智を超えた尊き存在への憧れと敬意、そして畏れの思いが育んできた精神文化です。


昼尚暗い山道や鬱蒼とした苔に覆われた道を歩いていると、この古道を歩いた何千万という人々の様々な思いが踏みしめる土から、積み上げられた石から、木々の合間からカラダに沁み込んでくるようでした。


果てしなく続く様にさえ感じられる山々や、本宮へ向ってのみ枝という枝を伸ばす神樹を見つめていると、自分のすべてを委ねられる信頼の思いが涌き起こります。


「私は歩かせてもらっているのだ。」という感謝の念が巡礼の決意と共に感じられます。その表現方法としてゴミを拾いながら古道を歩くことにしていました。

ゴミを拾うことは、自身の一番醜く、最もダークな部分を掻き集め、光の下へと送り出す心の作業でもあります。


それでも、明らかに、あるいは敬意というものを全く持たず放ったのであろう飴の小袋が幾つも古道にあるのを見つけた時、私は軽く舌打ちせずにはいられませんでした。

生活路としても使われる古道で売られていた飲料の缶が、丁度飲み終わるであろう地点にバラバラと転がっていたり、ご丁寧なことに石碑の後ろに立てられているのを拾い上げながら、「F★★K」とつぶやかずにはいられませんでした。


一番栄えた参詣道である中辺路は、幹線道として機能もしていました。山と言っても現在車道として使われていたり、車道に交差している区間もあります。


強く雨の振り付ける中、ゴミを見つける度に17KGのバックパックを背負いながらしゃがんでは立ち、袋に入り切らなくなったゴミを両手に抱えながら歩いていました。

思いの外多い、古道に捨てられたゴミ。

車から投げ捨てられたゴミ、ゴミ、ゴミ。

喰い散らかしたおにぎりやパンの袋、空缶の入ったボロボロのポリ袋が車道脇に転がっていました。

Fワードを叫ばずにはいられませんでした。


前日から続く雨に、湿ったテントや寝袋で荷物は更に重く感じられます。大きな買い物袋一杯のゴミを、どうにか抱えながら歩いていました。

その量の多さにショックを受けていました。捨てる人への怒りをヒタヒタと感じていました。


世界遺産なのだから、聖地なのだから、歩く人々のモラルが高くあって欲しいという期待を踏みにじられた動揺。(言葉にするとスゴいですね。笑)

理解出来ない、したくもない行動をする人々への反感。

自分の中にある混沌とした部分が呼び起こされます。



雨は、すべてを浄化するように降っていました。





雨が降ることは分かっていました。

世界にある惨状、悲しみ、怒り、そして自身の内なる混沌と向き合うために歩く意思を固めていたのですからね。



自分の心が世界を反映する、という考え方があります。


心理学的に人間の心を分析すると、私達が普段考えたり感じたりしている顕在意識(表層意識)は氷山の水面上に見えている部分にあたります。

この水面上に見えている氷山は、全体の7分の一の大きさしかないそうです。


見えない水面下で氷山を支える大きな塊のように、心の奥深いところには潜在意識の層が広がっています。

自覚することが殆ど無いものの、私達の行動や考え方に強く影響を与える潜在意識。

この潜在意識のさらに奥深いところには、超意識といわれる領域があるとトランスパーソナル心理学では定義しています。


超意識。集合意識とも呼ばれています。

いわゆる自我を超えた、サマディ(三昧)の状態が経験する意識の領域です。


集合意識の領域には、自分と他者の間を隔てる境界線はありません。

すべてはひとつです。



つまり、集合意識の領域では私の考えや行動はすべてに影響を及ぼし、またその逆に世界に起こる出来事や人々の感情も、例えそれを知ることがなくとも私に影響を与えているのです。


この考え方は突き詰めると、世界のすべての出来事に責任を持つ、という責任感を成長させてくれます。



クンダリーニヨガは『Yoga Of Awareness / 目醒めのヨーガ』と呼ばれています。


ヨガの経験の長い方々は、ヨガを通し自身に対する様々な「気づき」が増えることを実感していることと思います。

始めは身体の様々な変化であったり、小さな筋肉や骨の動きだったりもすることでしょう。


身体を動かすことで得られる壮快感、また緊張のほぐれから、本来持っている自分自身の力や能力を覇気することができます。

これまでの「限界」を超え、あらゆる感覚が広がり、そのことから得るものが多くなるのです。



ヨガの練習は、時間や空間に縛られた限界を超える実体験を与えてくれます。

クンダリーニヨガが『目醒めのヨーガ』と言われる由縁は、この体験の中で自身の深い深いところにある、本当のアイデンティティとの一体感を培うことができるからです。


本当のアイデンティティ。それは 魂 です。

小さな自分である自我を超えた、高次の自身です。






ヨガの生まれたインドの哲学では、ブラフマン(梵)という創造する意識が宇宙にはあります。

宇宙が存在する根本原理とされています。


私達人間ひとりひとりは、この創造する意識であるブラフマンの小さなエネルギーです。

クンダリーニヨガの哲学的な目的は、個人的小さなブラフマンを宇宙的ブラフマンへと昇華させることにあります。


梵我一如と訳されています。永遠の至福に到達した状態です。



なんだか分かりにくいですよね。

つまりは、創造のエネルギーであるクンダリーニにしっかりと繋がった状態で生きるということだと私は感じています。



内なるエネルギーは、自分自身を信じる力を高めます。

真理に基づくことで、新しい可能性や出来事を引き寄せ、現実というものを拡大します。

限界というものは自分が作っています。

本当の現実は、私達が創りあげてゆくものです。


今この時に起こることに細心の意識を配り(Mindfulness)、思いやりを持った心からの行動をし続けることで、現実を変えてゆくことが私達はできます。


この生き方は、魂との一体を生きる、ということです。



クンダリーニヨガの練習は直感力を育てます。

インナーガイダンスとも言われる直感は、私達の内なるGSPです。魂の導きです。




6日間歩き続ける中で、たくさんの美しい山や樹、草花に出会いました。

思いやりと大きな心でもって助けてくれる、たくさんの人々にも出会いました。


ひとりテントを張り、真っ暗になるまで外に座り、出会った美を思い出しながら、ぼぉっと夜の帷が落ちてゆくのを眺めるのが一日の締めくくりでした。


そして、真の暗闇を見つめながら、自分自身が光であることを感じていました。

出会った人々ひとりひとりは、私の光でした。

美しい山や樹、草花は、私の光でした。


光は魂を表しています。


闇と光はコインの裏表の様な関係でも、陰陽のマークの様に存在しているのでもないと確信しました。


光は闇の中にある。


私達はただ、それに目醒め、輝かせてゆくのみなのです。




落ちていた缶飲料の蓋を拾おうと腰を下ろすと、木の根っこが蓋の指をかける輪に絡まっていました。

苔が蓋の半分以上を覆い隠しています。

私達人間の作り出すものなんて、彼らにとっては屁でもないものなんだ。

改めて思いました。


ゴミを落として歩く人にも、争いを続ける人にも、これ迄以上の光を送り続けられると思いました。

一番光を必要としているのは、彼らなのだから。



起こるすべてに感謝し、一足一足すべてを意識しようと歩き続けていると、すべては調和に満ち、完璧なタイミングでその場へと導かれてゆくのが分かりました。


生命の根源である自然と宇宙の一部としての自分を経験させ続けてくれる旅でした。


私はこの大きな宇宙の片隅にある小さな世界で、この旅のように自分の人生を続けてゆこうと思いました。


世界の美しさに感謝と愛を表現しながら、光である自分を生きよう。

そう決意を新たにしました。



光の仲間とどこまでもゆけるように☆





2015年11月25日水曜日

『熊野三山巡礼』と『目醒めのヨーガ』 - 其の前編 -

私は京都の今熊野で生まれました。熊野信仰が盛んだった平安時代、後白河法皇によって創建された新熊野神社(いまくまの)の主祭神イザナミ命が産神様です。

日本でクンダリーニヨガを教えたいと帰国し1年が経ち、京都で小さなワークショップを開かせて頂いた際、常々訪ねなければと思っていたこの神社にお参りしました。

自分の原点に立ち、新しく物事を始めた感謝の想いを伝えたかったのです。


その時ふと、自分が人生の半分以上を過している横浜の実家の産土神様も、熊野神社であることに改めて気づきました。

熊野神社は全国に数千社あるとは言え、これはご縁が深そうです。



神道には元来3つの信仰の柱があります。

第一は縄文人の自然崇拝。太陽、海、山、大きな木、奇岩といった自然を神の依代とする自然神信仰です。

次には朝鮮半島から渡ってきた弥生人が伝えた、祖先の魂を神とする祖先神信仰。

そして第三は農業が始まり、その土地や農耕を治める偉大な存在を神とする信仰です。

これらが一体となった信仰が神道です。



私は幼い頃より山林を駆け回って育ちました。夏になると毎週末、葉山の海で泳いでいました。

山の中の道無き道を歩き迷い、辺りが暗くなり恐ろしい思いをしたこともあります。大波に呑まれて海底に打ち付けられ、痛い目にあうこともザラでした。笑 

そんな私の一番の友達は祖父を思わせる趣の松の木。家の目の前にある山の頂上からひょっこり顔を出しているじいさん松に、その日にあったことを話すのはとても大切な時間でした。

もっと遠くまで泳いでゆきたい。海とひとつになって波とともに揺らいでいたい。日が沈むまで遊び、次第に暗くなる海。もう立ち入るのを拒むかの様に見える海を、憧れと畏れの入り交じった思いで見つめるのが大好きでした。


子供の時分より、自然は一番身近な友のような存在であると共に、憧憬と畏敬の念を抱かせる存在だったのです。

自然神を信仰することは、私の原点とも言えます。



古事記や日本書紀については余り詳しくありませんが、『スサノオの到来 ー いのち、いかり、いのり』という展覧会で、縄文時代より続く日本人の精神の土台にあるスサノオという神を知り、更に熊野神社への興味が募りました。


そして、神と言うには余りにも人間臭いキャラクターのスサノオに、恐れ多きながら自分自身を重ね合わせました。



スサノオは成長する神です。

死んだ母を慕い、母に会いたいと泣きわめき、父であるイザナギに勘当されるばかりか、姉であるアマテラスと大げんかの末、高天原を追放されてしまう困ったちゃんでした。

地震、雷、嵐を司る破壊の神であると同時に、追放されあちらこちらと漂流する神でもあります。

漂流する先々で、ある時は爆発し災害をもたらし、ある時はその爆発力を活性へと導きます。

そして、ヤマタノヲロチを退治するヒーローへと変貌を遂げるのです。

退治を終えスサノオが詠んだとされる歌は和歌の始まりとされ、文化をもたらす神の一面も兼ね備えるようになります。



宇宙や自然の営みは、破壊と創造を繰り返し成長しています。

生きるということも同じではないでしょうか。そして、生きる目的のひとつは成長することなのだと、ただ単純にそう思えるのではないでしょうか。






熊野三山は熊野川をご神体とする本宮大社、那智の滝をご神体とする那智大社、神倉山のゴトビキ岩をご神体とする速玉大社という、自然神信仰が土台となっています。

そこに祖先崇拝の信仰が流入。それぞれスサノオ命、イザナミ命、イザナギ命が主祭神としてあてられました。

奈良時代に成された神仏習合に、平安中期に中国より伝わった浄土信仰が仏教からの視点で神と仏の関係を重ね合わせ、仏が神の姿で現れるのだとする本地垂迹を説きました。

そして本宮は阿弥陀如来を、那智は千手観音、そして速玉は薬師如来をお祭りするようになったのです。


この三山への参詣道を歩いて巡りたいと思いました。



90年代中頃にチベットを訪れたことがあります。当時外国人は許可書を発行してもらい、高い値段のバスに乗らなくてはなりませんでした。

そんなバカバカしい話はあるかと、ちゃっかり中国人になりすました私は許可書も取らず、チベタンで満員のオンボロバスの後部座席に乗り込み、標高3650mのラサを目指したのです。

2泊3日のバスの旅でした。その車窓から、五体投地をしながら聖地ラサへ向う何組もの家族を見かけました。

体全身を使い信仰を表現しながら遅々と進む父親。荷物を詰め込んだ祖末なリヤカーを引く母と子供達。

道は舗装されているところもありましたが、土を固めているだけのところがほとんどでした。もちろん、街灯はありません。

夜、巡礼者達はリヤカーの側に身を寄せて眠っている様でした。標高3000mを超える山です。氷点下まで下がる気温。バスの中でさえ寒くて眠ることができません。

その信仰心に打たれました。



平安末期から鎌倉時代初期の約80年間、熊野三山への道中は「蟻の熊野詣」と表現される程、参拝へ向う人々の行列で賑わっていたそうです。

高貴な方はともかくとして、人々は皆、京都から紀伊半島の先端へと20数日かけて歩き、熊野を巡礼したのでした。

当時の人々は世の中の動乱に巻き込まれ、政治が揺らぎ、社会情勢の不穏に怯えていました。おまけに末法思想の不安も重なり、極楽浄土を求める強い思いに駆られ、熊野詣へと赴いていた様です。



その信仰の矛先はともかくとして、彼らの熱い想い、そして祈りを自身の体で経験したい。

そうすることで、自分の原点へとつながりたい。


そう思いました。


成長する神スサノオのように、成長し続けたい。

原点へとつながり、自然神と一体となることで内なる創造の源を滾滾と湧き上がらせよう。


自然神へ近づくには歩いて向おう。自分の呼吸のペースで、自身の命の営みのスピードで、すべてを感じながら歩こう。

それが私の神に対する流儀だと感じました。



超個人的な想いから突き動かされる様、熊野巡礼に出ることにした2日前、テロ事件が起きました。

この事件は日本で全く報道されていない500名ものパレスチナの子供達の虐殺、イラク北部の130体の死体遺棄、テロ壊滅を理由に爆撃によって連日数百名の一般人が亡くなるシリアの現状に、改めて私の意識を向わせました。


この美しい筈の世界に生まれてきた喜びを感じることもできず世を去る人々に、無力な私は何もすることができません。


”神”という名の下に歪んだ信仰心の暗闇にいる人達をどうすることもできません。



せめてこの巡礼を平和のために歩こう。一歩一歩、自分の内なる平和をより強固なものにしよう。


この巡礼を愛のために歩こう。愛の鼓動に合わせて、自分の全存在が愛の波動で溢れるようになろう。



歩きながら、一番醜く、最もダークな自分と向き合おう。たっぷり探って心の闇を光へと変換させよう。


自分の内面の弱さと闇が世界を反映しているのなら、より心の平安をより愛を体現し、自身の闇を知ることで光を世界へ送ろう。



そして私の巡礼は始まりました。




2015年10月17日土曜日

呼吸と言葉、そしてマントラ 〜 音と言葉のヨーガ 〜

私達はエネルギーという海の中で生きている。
            エネルギーは波のように絶えず動いている。
             この宇宙にあるすべての創造物は振動しているのだ。


物理学の最先端である量子力学では、物質はすべて原子核と電子で構成されており、「原子核の周りを電子が波を起こしながら振動している」と定義しています。


例え生命がないように見える個体 、例えば石や岩、あるいは机なども絶えず振動しています。

ただ、その振動が生物よりもゆっくりで低い波動であるというだけのことです。



ある波動は聞くことができます。

音は耳で聞くことのできる振動であり、波動ですね。


私達の考えや想い。言葉として音に表される前の、私達の中にある声。

それは、無音の音です。


それは、電磁気的な波動です。


考えや想いは既に、電気のように私達の内から世界へと放たれ、磁石のように何かを引きつけるエネルギーを持っています。


私達が聞いたり話したりする音や言葉に対して、さらに高い波動で振動し、低い密度で存在しています。


喜び、思いやり、感謝、愛、に満ちた考えと想いは、その中でも高い高い波動を醸し出すのは間違いないですよね☆



この宇宙全体は「音」という波動で成り立っています。

宇宙に存在する波打つ振動、存在するすべてのものの波動は、ひとつの大きな編目模様を創りだすようにつながりあっています。


私達が「ある特定な音」を醸し出すことで、ある状況、ある人、ある出来事など、その音に一致する特定の波動が引き合わされ、関わりが生まれます。




この世界を存在させている、とてつもなく偉大な真理というものは、こうした波動の一番高い周波数を放なち、振動しています。


永久に続く宇宙の創造性  
          宇宙愛(>世界愛>人類愛)  
                       人智を超えた智慧


「ある特別な音の波動」を使うことで、私達は自分の波動をこうした高い波動へと振動を上げ、意識を高めることができます。



調和に満ちた光り輝く海の中で、私達は自身を癒し、パワーの源につながることができるのです。



クンダリーニヨガでは、マントラ [ マントラの詳細は赤字をクリック★ ] を声に出したり、心の中で唱えたりすることで、この状態へと自身を導きます。

マントラは音と言葉のヨーガ。

心と頭をコントロールし、ある意図する方向へと導く、意識の方式です。





この世界に存在するすべての音の本質を、ナード(Naad)といいます。

ナードは時代を超え、全世界の言語のベースになる音です。その核となる音は、すべてが共有するひとつの源からきています。

言語の核にある普遍的な規則、そして人間のコミュニケーションのベースとなるのが、このナードです。




ナードは調和の振動です。



全世界の言語と私達のコミュニケーションのベースには、調和の核があるのです。


この調和の振動をとおし、私達は無限性を経験することができます。



私にとってその経験は、時も空間も超え、永遠に続く大きな営みの中で、ただ振動している感覚です。

たった一瞬だったりするのですけれどね。笑

その感覚の訪れる前には、脳の中にどぉおと、ねっとりとした甘露のようなものが溢れます。セロトニンでしょうか。

至福の振動、そのものになるのです。




この調和の振動をどうしたら経験することができるのかを、何千年もかけて追求したのが、ナードの科学です。

音が与える、身体、心と頭、精神への反応と影響を、舌と口の動き、そして頭の中のケミカルの変化を研究し、マントラを更に有効なものとしてきました。



クンダリーニヨガのマントラは、その多くが母音優勢な発音をする言葉を含んでいるように思われます。

インドのパンジャビ地方で話されている言葉が語源となっていますから、もちろん子音優勢な言語ではありますが、よく使われるマントラには母音が多く含まれています。


これが私にとってとても心地よく、美しい言葉に感じられるのです。



日本語は母音優勢な言語です。母音のみで意味の通じる言葉があったり、子音の後に必ず母音が組み合わされて言葉ができています。

余談ですが世界の中でも、この母音優勢な言語というのは、日本語とポリネシア語しかないそうですよ。



母音というのは、声帯を震わすだけで出る、自然音です。脳の中で皮質を超える長い軸索を刺激する働きがあることから、情感や温かみを感じさせる音だと云われています。

自然界にある川のせせらぎの音、風の音、虫の音なども、母音と同じ音の成分を多く含んでいるそうです。



これは私の個人的意見ですが、この世界の存在するすべての音の本質であり、調和の振動であるナードは、母音からできているのでは、と思うのです。

クンダリーニヨガのマントラを唱えていて、自然界、それを包括する大きな宇宙の調和の波とともに揺れていると、そんなことを感じるのです。




私達の体をエネルギー的に見ると、喉から上3つのチャクラは「天」へとつながり、みぞおちから下3つのチャクラは「地」へのつながりが深い傾向にあります。

中心となる心のセンターは、上下のセンターが交わる「人間」の領域です。


音とナードのパルス(瞬間波動)は、上3つのチャクラを支配します。


私達が普段話す言葉は、下3つのチャクラからきています。動物的で衝動的な物事を反映している言葉です。


呼吸はこの衝動的物事に影響を受け、私達の言葉は感情を往々にして反映します。


緊張したり、ストレス下にある時、呼吸が短く浅くなるのは、誰しもが経験していることですよね。

そして、つい、感情から言葉を発してしまうことも、往々にしてあるものです。



マントラを唱えることは、心のセンターで上下各3つのチャクラのバランスをとること。



「天」から授けられた言葉を、丹田をとおし「地」のエネルギーを加え、呼吸とともに愛と思いやりのセンターである心を経て、世界へと放ちます。


呼吸はプラーナ。言葉に生命の力を吹き込みます。


マントラのチャンティングを練習すると、呼吸と言葉の関係に気づきが生まれ、普段の言葉にも力が宿るようになってきます。




『吸気は燃料。エネルギー源だ。

呼気は、その吸い込んだエネルギーをどの様に表しているのか、ということだ。

生命は、どう息を吐くかによって大きく影響される。

私達の言葉は、吐く息とともに届けられるのだから。』






クンダリーニヨガを西洋へ広めたヨギ・バジャンの言葉です。



ヨギ・バジャンは、吐息の質というのがとても重要であるとも言っています。

ヨガの体位をしっかりとるにも吐く息の質が大切。


そして、自分の印象や想いを相手に伝えられるのか、といったことにも吐く息の質は直接的な繋がりがあると述べています。


これは呼吸と言葉の関係に気づくと、実感して頂けるかと思います。




こうしたマントラのチャンティングを含めた「呼吸と言葉」をテーマにしたクンダリーニヨガのスペシャルクラスを開きます。



呼吸と言葉の関係はもちろん、マントラの持つパワーをしっかりと感じて頂けるよう練習してゆきます。


言葉を話す上で大切な丹田の使い方、そして丹田力を強めるエクササイズもたっぷりあります☆



現代社会に於いて、言葉の力はすべてを牛耳るといっても過言でない程大切なものです。

自身の言葉の力を、マントラ、そして、呼吸とともに鍛えてゆきませんか。






INSPIRATION、発想の源泉、霊感、ひらめきなどを意味する英語のこの言葉には、息を吸うこと、吸気といった意味もあります。



自身を高める呼吸と言葉、手に入れたいですね☆




2015年9月7日月曜日

クンダリーニ 〜 内なる無限の可能性 〜

クンダリーニ。この言葉の響きに甘美さを感じるのは私だけでしょうか。


クンダリーニは、創造的な潜在能力です。


人間の持つ潜在的、顕在的な2つの意識のエネルギーそのものであり、これ無しには人間自体が存在し得ない、本質的な意識であるとも言えます。

もっと簡単に言うと、クンダリーニとは根源的な生命力、なのです。


クンダリーニのエネルギー無くして、私達は生きることができません。



量子力学では「宇宙を形作るすべてはエネルギーでできている」と定義していますね。

この宇宙にあまねくすべての命はエネルギーを振動しています。このエネルギー波動こそが、生命力です。


身体は本当に神業としか思えない程、精巧に創られています。それは、エネルギーレベルにおいても同じ。


人間という生命体は、循環するエネルギーのパターンとして、創られているのです。精巧なエネルギーパターンは、経絡(ナーディ/サンスクリット語)として体内に張り巡らされています。


生命エネルギーは背骨を流れ、体、そして手足へと、この経絡を流れて全身へ運ばれてゆきます。

背骨に沿って存在するエネルギーセンターのチャクラ [ チャクラについては赤文字をクリック★ ] にもエネルギーは流れ、出入りもしています。

背骨はこのエネルギーシステムの中で、中枢経路的役割を果たしています。



人間という存在自体がエネルギーであり、エネルギーを放ち、宇宙にあまねく生命エネルギー、プラーナを取り入れながら生命を保っているのです。


プラーナが生命エネルギーで、クンダリーニは根源的な生命エネルギー。なんだか混同してしまいそうですよね。???



クンダリーニヨガでは、プラーナはエネルギーの原子だと定義しています。

私達を型づくる一番小さなエネルギーの核、プラーナ。この人間のエネルギーアトムは、宇宙を構成するエネルギー的微小存在であるプラーナと同じものです。


プラーナは絶えず動いています。宇宙にあまねくプラーナは、私達の体と心を出入りしているのです。

つまり、私達はプラーナを通して宇宙を経験している、ということなんですね☆




一方、クンダリーニについてクンダリーニヨガでは、私達ひとりひとりの内にある、宇宙の全体的エネルギーである、と定義しています。

この個人に内在するクンダリーニのエネルギーは、ひとりひとりの内にありながら、個人を超えたエネルギーでもあります。


クンダリーニは通常、潜在的エネルギーとして脊髄の一番下にあり、一般的にはこのクンダリーニのごくごく微量なエネルギーが体内を巡っているのみです。


古代の熟練ヨギィや瞑想者の第三の目に、とぐろを巻いて眠っている蛇として感知され、コイルを巻くという意味のサンスクリット語でクンダリーニと名付けられました。


東洋思想では古今問わず、蛇はエネルギーそのものを象徴していますね☆

蛇は霊的存在を表し、意識の目覚めを促すガイドスピリットとして私達人間と関わってきました。

また脱皮しながら成長するその姿は、若返りや回復を象徴するとともに、発展してゆくために古い考え方やパターン化された癖を捨ててゆくしなやかさを体現しています。


古代タントリックの思想においてクンダリーニは、地球と性的創造性のエネルギーが組み合わされたものとされています。

地球上の大河や滝を蛇や竜に例えたり、エネルギースポットと言われる場所の気や木が渦を巻いている現象を照らし合わせると興味深いですよね☆


地球はあらゆる生命を産み育んできました。私達人間も、地球からの産物。

そして地球の子供である人間の体の中には、母なる地球と同じ生み出すための根源的力が備えられているのです。



このシステムに思いを馳せる時、私はとめどなく感動し感謝の念が涌き起こります。クンダリーニヨガの練習を通しこのエネルギーに触れる時、とてつもなく幸せで大きな喜びに包まれます。



クンダリーニもプラーナも活性化されると、体と思考を浄化し、意識を高めます。私達に内在する進化を促す装置としての役割を担っています。

このことから、クンダリーニは魂のエネルギーそのものであるとクンダリーニヨガでは見なしています。目覚めへの扉を開けるエネルギーです。



究極的に言えば、すべてのヨガの目的はこのクンダリーニを活性化することにあります。

クンダリーニヨガは更に直接的に、この根源的な生命力を覚醒させることにフォーカスしたヨガと言えます。


クンダリーニが活性化されると、このエネルギーは中枢経絡である背骨を通り、体の天頂にあるエネルギーセンター、クラウンチャクラへ向かい螺旋を描きながら上昇します。


上昇する過程でチャクラのバランスを整え、自身の持つヒーリングシステムでもって体と心の不調を癒してゆきます。


クンダリーニヨガはかなりパワフルで自己啓発力に満ちていると同時に、セルフヒーリング的だと感じられるのは、この自分の内なる癒しの能力を発動させてくれるから。私にとって大きな魅力です。



地球を母なる大地と呼んだり、女性名詞として示す言語がある様に、地球のエネルギーもクンダリーニも、女性的エネルギーであると言われています。


タントリック思想では、上昇した女性的エネルギーであるクンダリーニは、天頂にあるクラウンチャクラで男性的エネルギーと統合します。

クラウンチャクラは宇宙的エネルギーが体内へと注ぎ込まれるセンターです。

宇宙は父性を表しています。


このふたつの相反するエネルギーがひとつとなる時、すべては完全な調和を醸し出します。神聖なる結婚、なんてロマンティックな言われ方をします。

悟りを得るのも、この聖なる結びつきが起こるからこそ。



クンダリーニは上昇する過程において、意識のセンターであるチャクラを活性してゆきます。

そしてクラウンチャクラでひとつとなったエネルギーは、ベースチャクラへと再び旋回しながら降りてきます。


このクンダリーニの上昇が途中で遮られてしまったり、頭頂部でエネルギーが止まってしまうことで起きる症状が、クンダリーニ症候群として知られています。

ほとんどのクンダリーニ症候群の症状は、チャクラ、もしくは10体あるエネルギー体内にある、プラーナのバランスの乱れによって引き起こされているだけです。

プラーナのバランスを整え、しっかり大地に繋がることで症状は治まります。


上昇したものは下降する。それが自然の摂理です。


覚醒したクンダリーニは脊柱を踊る様に上昇しては下降し、潜在していた創造的エネルギーで細胞を光り輝かせてゆきます。

創造性に満ち、魂と一体となった自分を生きることができます。


ものごとを創り出すには、初めに何かを創ろうという意識があります。

意識しているにしろ、無意識にしろ、自分の人生を創り出しているのは他でもない自分自身。こうして考えていくと、内在するクンダリーニがとても身近なものに感じられてゆきませんか。


私達の内には、未知なる無限の可能性が眠ってる。


その源に繋がれば、可能性は無限大です ∞








2015年8月8日土曜日

クンダリーニヨガって何? 〜ヨガの八支則とクンダリーニヨガ 〜

クンダリーニヨガって、およそヨガらしくないヨガだと、思われそうなヨガなんです。好き嫌いが大きく分かれるね、と言われたこともあります。

確かに、クンダリーニヨガには可笑しなポーズやエクササイズがたくさん。

握りこぶしを作り、腕を伸ばしたまま3分間、その腕をグルグル廻す、

とか、

膝を緩めて前屈みに立ち、腕を床と平行に横に伸ばし、手首をブラッと下げ(まさに案山子 笑 )、そのままポーズを維持して5分から7分間、

などなど。

膝と肘(!)での4つ足立ちで部屋を歩き回る、なんて、なんやねんこれ、的なものもあります。


「ついて行くのに精一杯でした。。。」

普段のヨガの常識を超えたクンダリーニヨガのレッスン。そんなコメントを頂いたこともあります。初めていらした方は戸惑うこともあるようです。

私はそのユニークさにゾッコン。次に何が来るのか見当もつかないところがツボ、なのです。笑



ところでヨガの常識、って何でしょうね。

ヨガとはなんぞや。

これを知ると、クンダリーニヨガこそ、ヨガの神髄へ迫る最短、近道の練習法だ、と断言したくなってしまう私です☆



ヨガといえば、ストレッチ的だったり、時に超人的なポーズがあるアーサナを連想する方が多いのではないでしょうか。

日本ではホットヨガや岩盤ヨガなど、美容面を追求したヨガが女性の人気を集めているようですね。

アロマテラピーやクリスタルボウルなどを組み合わせたヨガや、マーシャルアーツの要素を取り入れたヨガなど、新しいコンセプトのヨガもどんどん生まれています。


ヨガは古代インドの言葉、サンスクリット語です。「結ぶ」「つなぐ」「統合」を意味します。

アーサナを通して体、心、精神の統一を目指すのもヨガならば、色々なコンセプトをつなぎ合わせていくのもヨガ、ということなんですね。


本場インドでは「直す」「練習する」「アレンジする」「関係する」「結婚」など、日常会話の中で本当に様々な意味を表し、使われているそうです。

その懐の深さというか、ある意味大雑把感は、さすがインドだなぁ、と感じ入ります。笑

ちなみに、正式にはヨーガ、と伸ばして発音します。



2世紀から4世紀頃、『ヨーガ・スートラ』という経典が編纂されました。パタンジャリという方が、古代からのヨーガの智慧をまとめた、4章からなる文献です。

ヨーガ、そして瞑想の目指す到達点、哲学、その構造について、パタンジャリが端的に述べています。



「ヨーガ チッタ(心) ヴィリッティ(作用) ニローダハ(止滅)」


『ヨーガ・スートラ』の第一章2節はこう始まります。


「心の動きを止めること。そして滅すること。それがヨーガである。」


私達は絶えず何かを考えています。それは心の大切な働きのひとつですが、何かに集中している時、私達の心はひとつに留まります。

何かに没頭している集中感。今という濃縮された時にしっかりと留まり、心が定まる無心の状態。

それは時間も空間も超えたところ。

すべてはひとつとなる。

至福の悦びの場、サマディ。






サマディ、三昧と訳されてます。

読書三昧、山歩き三昧、仕事三昧、贅沢三昧、、、やりたいことをとことんやる、究極の状態。

やりたいことに集中しているのは、悦びでもありますよね〜。


このサンスクリット語の音に漢字を充てがった言葉は、仏教用語として日本に到来しました。

俗界(笑)では、欲求を満たすための心の集中状態を表しますが、元来の仏語では、欲を超えたところにある集中状態を表します。


安定した精神の集中が極まった状態。それが、三昧(サンマイ)です。

極まった集中とは、目覚めの状態。今あること、すべて知覚している。

覚醒された意識。


それが三昧の状態です。


そこへ到達することがヨーガの神髄であり、そのための練習法がヨーガである、とパタンジャリは看破しているのですね☆



『ヨーガ・スートラ』の中には、生きる上での深い真理が解かれています。

それは、私達は体も心も思考も精神も、そして霊性も、単体ではなく、全体的システムのまとまりとして発達させていかなければならない、ということです。


「八支則」と呼ばれる8つの法則であり、規則でもあります。

自身に8つの手足があると比喩し、その法則である手足をバランスよく養うことでサマディへと向うことができるという真理です。

サンスクリット語で「ヨーガの8つの手足」を意味するアシュタンガヨーガと呼ばれています。


ヨーガのポーズを意味する「アーサナ」、呼吸法を意味する「プラナヤーマ」などは、この八支則のひとつなんですよ。



八支則は、以下のごとく日本語に訳され、クンダリーニヨガの練習方法は以下の解釈に基づき、そのすべてを同時に育て磨いてゆくことを意図しています。


サマディ「三昧」、目覚めと魂との融合。いわゆる梵我一如。

ディヤーナ「深い瞑想」という無心の状態。

ダラーナ「集中」、字のごとく一点に集中すること。

プラティヤハーラ「制感」といって、感覚と思考を対象から離し内面へと集中してゆく行法。

プラーナヤマ「調気」、プラーナ、宇宙にあまねく生命の気を呼吸を通しコントロールしてゆく行法。

アーサナ「坐法」、健康を促進し、深い集中へと導く体位。

ニヤマ「勧戒」、外界との関わりの中で必要とされる、5つの自制法。

ヤマ「禁戒」。自身の内面とのつながりを明確にし、自分が完全であり、十分満たされているのだという意識を育ててゆく日々の5つの練習法。


もともとヨーガの練習方法とは、この八支則すべてを行うものでした。

時代が流れ、ひとつだったヨーガは22のフォームへと分かれていきました。

そこでは、アーサナにフォーカスしたヨーガはアーサナのみを、瞑想にフォーカスしたヨーガでは瞑想のみを、はたまたマントラを唱えることに焦点を向けたヨーガではチャンティングのみをひたすら練習するようになっていったのです。

ま、身体を動かすことは大好きだけれど、じっと座って目を閉じているなんてぇ、という人もいますし、歌うなんてとんでもないっ、という人も中にはいますからね。。。



ここで再び、ヨーガとは何を意味していたかを思い出してみましょう。

ヨーガとは「統合」です

八支則をひとつの法則と捉え、練習を通し「ひとつになること」を経験する。

それがヨーガです。



ここに、クンダリーニヨガが登場します。にっこり

クンダリーニヨガの訓練や練習法は、この八支則すべてが、どんなものにも含まれているのです。


あのヘンテコな案山子のポーズも、腕をブルブル震わせながら数分間耐え忍んでいると神経系が調整され、雑念が淘汰され、更なる数分間へのエナジーが呼吸から注ぎ込まれるのを感じ、感覚が研ぎすまされ、そして、サマディ、、、となる訳です。

短絡過ぎました、ね。笑


が、クンダリーニヨガのテクノロジーと技法が、八支則を同時に育ててゆくということは確かです。


そしてその過程において、創造的な可能性のエナジーをも磨いてゆくのです。

そのエナジーとは、クンダリーニ。


私達の内に眠る、無限の可能性を秘めた創造のエナジーです。