2015年11月25日水曜日

『熊野三山巡礼』と『目醒めのヨーガ』 - 其の前編 -

私は京都の今熊野で生まれました。熊野信仰が盛んだった平安時代、後白河法皇によって創建された新熊野神社(いまくまの)の主祭神イザナミ命が産神様です。

日本でクンダリーニヨガを教えたいと帰国し1年が経ち、京都で小さなワークショップを開かせて頂いた際、常々訪ねなければと思っていたこの神社にお参りしました。

自分の原点に立ち、新しく物事を始めた感謝の想いを伝えたかったのです。


その時ふと、自分が人生の半分以上を過している横浜の実家の産土神様も、熊野神社であることに改めて気づきました。

熊野神社は全国に数千社あるとは言え、これはご縁が深そうです。



神道には元来3つの信仰の柱があります。

第一は縄文人の自然崇拝。太陽、海、山、大きな木、奇岩といった自然を神の依代とする自然神信仰です。

次には朝鮮半島から渡ってきた弥生人が伝えた、祖先の魂を神とする祖先神信仰。

そして第三は農業が始まり、その土地や農耕を治める偉大な存在を神とする信仰です。

これらが一体となった信仰が神道です。



私は幼い頃より山林を駆け回って育ちました。夏になると毎週末、葉山の海で泳いでいました。

山の中の道無き道を歩き迷い、辺りが暗くなり恐ろしい思いをしたこともあります。大波に呑まれて海底に打ち付けられ、痛い目にあうこともザラでした。笑 

そんな私の一番の友達は祖父を思わせる趣の松の木。家の目の前にある山の頂上からひょっこり顔を出しているじいさん松に、その日にあったことを話すのはとても大切な時間でした。

もっと遠くまで泳いでゆきたい。海とひとつになって波とともに揺らいでいたい。日が沈むまで遊び、次第に暗くなる海。もう立ち入るのを拒むかの様に見える海を、憧れと畏れの入り交じった思いで見つめるのが大好きでした。


子供の時分より、自然は一番身近な友のような存在であると共に、憧憬と畏敬の念を抱かせる存在だったのです。

自然神を信仰することは、私の原点とも言えます。



古事記や日本書紀については余り詳しくありませんが、『スサノオの到来 ー いのち、いかり、いのり』という展覧会で、縄文時代より続く日本人の精神の土台にあるスサノオという神を知り、更に熊野神社への興味が募りました。


そして、神と言うには余りにも人間臭いキャラクターのスサノオに、恐れ多きながら自分自身を重ね合わせました。



スサノオは成長する神です。

死んだ母を慕い、母に会いたいと泣きわめき、父であるイザナギに勘当されるばかりか、姉であるアマテラスと大げんかの末、高天原を追放されてしまう困ったちゃんでした。

地震、雷、嵐を司る破壊の神であると同時に、追放されあちらこちらと漂流する神でもあります。

漂流する先々で、ある時は爆発し災害をもたらし、ある時はその爆発力を活性へと導きます。

そして、ヤマタノヲロチを退治するヒーローへと変貌を遂げるのです。

退治を終えスサノオが詠んだとされる歌は和歌の始まりとされ、文化をもたらす神の一面も兼ね備えるようになります。



宇宙や自然の営みは、破壊と創造を繰り返し成長しています。

生きるということも同じではないでしょうか。そして、生きる目的のひとつは成長することなのだと、ただ単純にそう思えるのではないでしょうか。






熊野三山は熊野川をご神体とする本宮大社、那智の滝をご神体とする那智大社、神倉山のゴトビキ岩をご神体とする速玉大社という、自然神信仰が土台となっています。

そこに祖先崇拝の信仰が流入。それぞれスサノオ命、イザナミ命、イザナギ命が主祭神としてあてられました。

奈良時代に成された神仏習合に、平安中期に中国より伝わった浄土信仰が仏教からの視点で神と仏の関係を重ね合わせ、仏が神の姿で現れるのだとする本地垂迹を説きました。

そして本宮は阿弥陀如来を、那智は千手観音、そして速玉は薬師如来をお祭りするようになったのです。


この三山への参詣道を歩いて巡りたいと思いました。



90年代中頃にチベットを訪れたことがあります。当時外国人は許可書を発行してもらい、高い値段のバスに乗らなくてはなりませんでした。

そんなバカバカしい話はあるかと、ちゃっかり中国人になりすました私は許可書も取らず、チベタンで満員のオンボロバスの後部座席に乗り込み、標高3650mのラサを目指したのです。

2泊3日のバスの旅でした。その車窓から、五体投地をしながら聖地ラサへ向う何組もの家族を見かけました。

体全身を使い信仰を表現しながら遅々と進む父親。荷物を詰め込んだ祖末なリヤカーを引く母と子供達。

道は舗装されているところもありましたが、土を固めているだけのところがほとんどでした。もちろん、街灯はありません。

夜、巡礼者達はリヤカーの側に身を寄せて眠っている様でした。標高3000mを超える山です。氷点下まで下がる気温。バスの中でさえ寒くて眠ることができません。

その信仰心に打たれました。



平安末期から鎌倉時代初期の約80年間、熊野三山への道中は「蟻の熊野詣」と表現される程、参拝へ向う人々の行列で賑わっていたそうです。

高貴な方はともかくとして、人々は皆、京都から紀伊半島の先端へと20数日かけて歩き、熊野を巡礼したのでした。

当時の人々は世の中の動乱に巻き込まれ、政治が揺らぎ、社会情勢の不穏に怯えていました。おまけに末法思想の不安も重なり、極楽浄土を求める強い思いに駆られ、熊野詣へと赴いていた様です。



その信仰の矛先はともかくとして、彼らの熱い想い、そして祈りを自身の体で経験したい。

そうすることで、自分の原点へとつながりたい。


そう思いました。


成長する神スサノオのように、成長し続けたい。

原点へとつながり、自然神と一体となることで内なる創造の源を滾滾と湧き上がらせよう。


自然神へ近づくには歩いて向おう。自分の呼吸のペースで、自身の命の営みのスピードで、すべてを感じながら歩こう。

それが私の神に対する流儀だと感じました。



超個人的な想いから突き動かされる様、熊野巡礼に出ることにした2日前、テロ事件が起きました。

この事件は日本で全く報道されていない500名ものパレスチナの子供達の虐殺、イラク北部の130体の死体遺棄、テロ壊滅を理由に爆撃によって連日数百名の一般人が亡くなるシリアの現状に、改めて私の意識を向わせました。


この美しい筈の世界に生まれてきた喜びを感じることもできず世を去る人々に、無力な私は何もすることができません。


”神”という名の下に歪んだ信仰心の暗闇にいる人達をどうすることもできません。



せめてこの巡礼を平和のために歩こう。一歩一歩、自分の内なる平和をより強固なものにしよう。


この巡礼を愛のために歩こう。愛の鼓動に合わせて、自分の全存在が愛の波動で溢れるようになろう。



歩きながら、一番醜く、最もダークな自分と向き合おう。たっぷり探って心の闇を光へと変換させよう。


自分の内面の弱さと闇が世界を反映しているのなら、より心の平安をより愛を体現し、自身の闇を知ることで光を世界へ送ろう。



そして私の巡礼は始まりました。