ヨーガがフィットネス的、ファッション的に流行となりだいぶ経ちますが、世界的には広く知られセレブにも人気のあるクンダリーニヨガの認知度は日本ではまだまだ低く、あまり知られていないのが現状です。
そのクンダリーニヨガの魅力を伝えようと始めたこのブログですが、地味ながら(笑)「クンダリーニ」についての記事は群を抜き、よく読まれています。
人間が生まれながらに兼ね備えている、しかし、ほぼ発揮されることなく一生を終えるという未知のエネルギーを開発したい、または覚醒したい、と思うからこその読者数の多さかと感じています。また、精神世界やサイキック能力に興味のある方のみならず、オーラなど一般的になってきたエネルギーのひとつとして、自分の可能性を広げるツールであるクンダリーニに興味を示される方も多くなってきているのかもしれません。
これまでの価値観や常識が覆され、社会や経済のあり方が変化してゆく水瓶座の時代にあって、確固とした自分を確立し、自身の能力を伸ばし、潜在能力や自分の内なる無限の可能性にアクセスしたいと考えるのは、ごく自然な発想とも云えるのではないでしょうか。
このクンダリーニですが、精神世界の鍛練をされている方や微細な氣に詳しい方の間には、無闇に活性させたり、覚醒させるのは危険だという認識が前提としてあります。
クンダリーニは確かに、度を超えた強烈なエネルギーです。個人の精神的成熟がなされていない場合のクンダリーニ上昇は、精神的ダメージや心理的トラウマを受ける可能性が高いことが知られています。
『すべてのヨーガの究極的な目的はクンダリーニを活性することであり、クンダリーニヨガはその目的に特化したヨガである。』
そう公言されていますが、クンダリーニヨガのクリヤ は「クンダリーニを覚醒するための練習法」ではありません。
あくまでも各クリヤの目的が達成されるためのヨーガの技法であり、達成されるまでの過程に於ける心身の変化や、達成の結果として、クンダリーニが活性化されるのです。
そしてクリヤの練習を続けることで到達した心身の調和と、精神的に成熟した意識による意志と呼吸のコントロールにより、クンダリーニ覚醒は達成されます。
(精神的、身体的な修練をしたことがない一般的な方のクンダリーニは、そのエネルギーの1割ほどの氣が流れるのみと云われています。)
と云いつつも、この重要なポイントを受け入れ納得するのは、私にとって時間のかかることでした。なぜなら、私はクンダリーニ覚醒を目指していたからです。(!笑!)
クンダリーニヨガこそが、本当のクンダリーニ覚醒を導いてくれる技法だ!と初めてクンダリーニヨガを練習した時に、直感したからでした。
2002年、私はクンダリーニダンスというヒーリングダンスに参加中、クンダリーニの上昇を経験しました。
いわゆるニューエージ系ではありますが、各チャクラを刺激する呼吸法と踊りのパターンを繰り返すことで、心身の浄化と活性をもたらすダンスのセッションの最中、背骨の中でうねるように旋回する熱いものを感じました。その圧倒的なパワーをどうすることもできずにいると、背骨を中心に全身がガクガクと振動し始めたのです。
カラダの知恵でしょうか、身体はその強烈なエネルギーをどうにか放出しようと震えだし、立っていられなくなった私は床に転がって身体をクネクネとさせながら動き続けていたようです。
しばらくして振動する体の奥底から凄まじい圧力が突き上がり、どこかへ放出されました。(どこなのか、スゴ過ぎてよく覚えていないのです。。笑 )
惚けたような静けさの後、圧倒的な歓喜と恍惚が訪れました。
そして万物との一体感。 私は、愛、そのものでした。
その上昇は完全ではないものの、アナハタチャクラ(心のセンター)を全開にしたのではないかと思われます。
米国の神経解剖学者、ジル・テイラー博士が脳卒中の経験を講演するのを傾聴した際、とても興味深いことをおっしゃっていました。
博士の卒中は左脳の出血によるものでした。
左脳はご存知の通り、情報処理に長けた理論的、合理的脳です。
出血により左脳が壊滅されてゆくことで、情感と直感を司る感覚的右脳が優勢になります。
すると、身体を縛り付けていた”私”という領域が打ち破られ、肉体が周囲のものと溶け合う感覚が広がっていったそうです。
その奇妙な開放感と変化はまさに変容。時間を超え、世界のすべてがエネルギーの流れとして感じられたといいます。
宇宙との一体を感じ、それは涅槃の境地のようだったと博士は描写されています。
まさに、サマディーですね☆
アナハタチャクラが開く状態は、その過程に酷似しています。
心のセンター(アナハタチャクラ)は、愛と思いやりのセンターです。そして、その上位にある胸腺のチャクラは、無条件の愛を司ります。
これらのセンターが活性化されてくると私の個人的な感覚としては、すべてのものがより立体的に、そして輪郭から光が溢れ出してくるように視覚として感知されます。
その圧倒的な美しさに見惚れていると、皮膚の表面が光の粒子へと溶け込むように膨張し、細胞がプチプチと歓喜の音をたてながら美との同化へ向かい広がってゆくようでした。
すべての粒子は体の内外を自由に流れ、自分自身が幾億もの粒子として存在しているミクロさと、それらすべてと一体であるマクロさが同時に同じ次元で感じられる、とでも云えばいいのでしょうか。
また、息を吸い込む度に、空気が甘露のように甘く感じられました。口の中から恍惚が広がるような、すべてがゆるみ膨張してゆくような感覚の中、その甘い空気が身体の中を満たしてゆきます。
通常の意識に戻っても、周囲の美しさを見つめるだけでこの至福の一体へとすぐに移行できる状態が1週間ほど続きました。
その頃オーストラリアに住んでいた私は、道端やショッピングセンターの入り口に立ち、障がい者と呼ばれる人々が作った陶器を売りつつ、募金を集める”仕事”をしていました。
英語での会話能力の低い私は、足早に通り過ぎる人々にせめてもの笑顔で挨拶を振りまくものの、商品を売ることも募金を集めることもままならぬ毎日でした。
しかし、例えば正面の美しい姿の木に見とれているうちに”変容”した私には、なぜが人々が惹き付けられるかのように次々と近寄ってくるのです。
「ちょうど友達の誕生日プレゼントを探そうと思ってたところよ。」と私の拙い説明に耳を傾け、陶器を購入する人。
たどたどしいしゃべりを「チャーミングな訛りね。どこから来たの?」と尋ねながらお札のドネーションを入れてくれる人。
「君を見ていたらとても幸せな気持ちになってね。」と微笑みながら話しかけてくださる方までいる始末。
この至福感と完全性が自分であるという恍惚の中で生きてゆきたい。。
そう切に願わずにはいられませんでした。
歓喜に包まれた1週間が過ぎると、満足に言葉もしゃべれず、望む仕事にもつけない、みじめな自分がいました。
それどころか、恍惚という圧倒的な躁の精神状態にあった反動は、深い鬱的症状をもたらし、自分の現実との落差の激しさに心は落ち込んでゆくばかりでした。
その後人間のエネルギー的システムなどを学び、自分の体験したことを理解すると、クンダリーニを覚醒させることは私の大望となりました。(ちゃんちゃん、と入れたくなってしまいますね。笑)
しかも、ヒーリングのセラピーやダンスなどをファシリテートするようになり、ボディワーカーとして働くようになっても、その『大望』が限りなくエゴであることに気づくことができませんでした。
「来てくださる方のためにも、スペシャルな提供ができるよう覚醒したい」という利己的考えが、劣等感に陥る度に浮かぶこともありました。
それでも「スペシャルな人になりたい」というエゴ的意識を、『愛でありたいエゴ』は、その考えを愛という原料のオブラートで包み隠していたのです。
それをはっきりと認識したのは、クンダリーニヨガのティチャートレーニングに参加していた時でした。
高度な授業についてゆくのが精一杯で、劣等感と疎外感の中、ぐしゃぐしゃな感情に向かい合いながらトレーニングとクリヤを連日続けていました。
早朝3時半より始まり、日々2、3のクリヤを行う集中した特殊な環境の中、それまでオブラートに包んでいたエゴが表面化してきたのです。
自分のエゴイスティクさにとことん向き合い、目一杯嫌悪し、その自分を愛おしく感じ、受け入れることで、私のまぬけな大望に光があたり始めました。
『自身の内なる神につながる、それは他の方の内なる神につながること。闇が光に変容する恍惚を感じなさい。』
トレーニング中、毎朝行っていた瞑想のマントラです。このマントラはトレーニングのテーマそのものでもあるように、私には感じられました。
自分にも他の人の内にも、同じ尊い魂がある。その魂において、スペシャルもなにもないではないか。セッションにおいても自身の成す仕事というのは、その方の内なる神を発動させることであり、自分のスペシャルさを誇示する場ではない。
このマントラ瞑想は、万物との一体感を呼び起こし、未熟な自分の不完全さを満たしてくれるのでした。
あの時、ただただ、世界の美しさに惚けるかの如くすべてと一体になり立っていた私は、思考もエゴも手放していました。
それはとても単純で純粋であるが故に、それを目にする人に、その人自身の奥にある美しさを呼び起こし、この美しい世界はひとつであるという安心感を与えていたのだと思うのです。
クンダリーニは無限の可能性です。全チャクラを活性し、サイキック能力を開くとも云われています。
しかし何より重要なのは、すべてはひとつである、という宇宙の真理そのものを体現させるエネルギーだということです。
すべてはひとつである。
この真理に基づき、ひとりひとりが創造主として生きる責任を、小さな日常の小さな選択から、ひとつひとつの行動から示し、自身を表現し生きてゆくことが、クンダリーニ覚醒の極意だと私には思われます。
創造主として生きる責任に目覚め、自身を表現し生きてゆくこと。
それは、小さな個人やエゴを越えた人類愛的な視点やスタンスを、日常的な生活や人生設計に生かすということではないでしょうか。
誰の心の中にでもある、一番尊い自身の思いや気持ち。それは魂の自分と云えます。この魂が、小さな自身のエゴをリードしてゆくような生き方や働き方ができるようになることを、私たちは心の底で求めているのではないでしょうか。
長い人類の歴史を経て築かれてきた人間の意識や精神が、変容へ向うと云われている水瓶座の時代に於いて、魂の自分を生きることは最も重要なテーマでもあります。
そろそろ魚座の影響から脱却する新しい年が迫ってきていることもあり、数年前より書きかけで放置していた(笑)私のクンダリーニの経験と、経験から感じたクンダリーニ覚醒の極意についてシェアする時期だと感じ、言葉にまとめてきました。
私は平均よりも少し低めな能力と知能を持った、ちょっとおっちょこちょいで抜けたところのある人間です。もしかすると、ちょっとぢゃないよ、と云われるかもしれません。(笑)仕事場では「外国人」と断言されてしまう程マイペースらしいので、ちょっと「一般的日本人」ではないのかもしれません。(笑)
そんな私が曲がりなりにもこの社会で心地よく、そして仕事をいつも前向きに楽しめるのは、クンダリーニヨガで日々、自分をメンテナスしているからこそだと感じています。
実際に朝、クリヤの練習を行い一日を始める時と行わない時では、仕事中の思考や行動の明晰さ、明確さに違いが表れます。また、判断ミスや凡ミス、失敗が圧倒的に無くなります。同じような意見を、クンダリーニヨガの友人や生徒さんからもよく聞かされます。
ある友人はクラスの後、仕事(個人事業主)がはかどり過ぎて深夜になってももったいなくて眠りたくない、とFBで公言していたことがありました。(笑)
ある音楽が趣味の生徒さんは、初めてクンダリーニヨガを経験した後に何かを創り出したいという欲求が高まり、ある種の興奮状態になり、これがクンダリーニが活性している状態なのではないかという話をしてくださったこともあります。
今年、私はクンダリーニヨガを定期的に教える機会に恵まれました。私の学んだ技法を必要とし、見つけ出してもらえたことに感謝をすると共に、私自身がこの機会(この友人)を呼び寄せたのだということを光栄に感じています。
そして集まってきてくれる人達が揃いも揃って美しく、クリエイティブで、それぞれの能力を高めるために、またご自身のメンテナンスとしてクンダリーニヨガを活用し、魂の自分を生きてゆこうとしている姿に刺激を受けています。
人生のジャーニーをクンダリーニヨガを通しシェアさせていただける大きな感動とともに、感謝を感じる一年を過させていただけました。
そしてこれは始まりであり、この感謝を共に広げ、共に成長してゆけることにワクワクしています。∞ありがとう∞
感謝と愛に生きること。それは、すべてはひとつであるという、宇宙の真理を生きることです。
そしてこの真理こそが、クンダリーニ覚醒の極意だと云えるのではないでしょうか。
SAT NAM
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