熊野古道のある紀伊山地は山頭火の句のごとく、『 分け入っても分け入っても青い山 』が連なる山々を超えてゆく参詣道です。
一番高い峠が標高868Mと高くはありませんが、私の歩いた田辺市の下三栖から標高300Mに位置する那智大社までに、500M以上の峠が7つあります。(参考*和歌山県街道マップ)
標識や看板もあり、整備された歩き易い道ですが、熊野詣の盛んだった時代にはさぞかし大変な道中であったことは容易に察することができます。
" 紀伊山地の霊場と参拝道は、万物、生命の根源である自然や宇宙に対する畏敬を、山や森に宿る神仏への祈りというカタチで受け継いできた文化遺産である。"
古道にある看板に記されていました。
熊野信仰はそもそも縄文時代から続く、人智を超えた尊き存在への憧れと敬意、そして畏れの思いが育んできた精神文化です。
昼尚暗い山道や鬱蒼とした苔に覆われた道を歩いていると、この古道を歩いた何千万という人々の様々な思いが踏みしめる土から、積み上げられた石から、木々の合間からカラダに沁み込んでくるようでした。
果てしなく続く様にさえ感じられる山々や、本宮へ向ってのみ枝という枝を伸ばす神樹を見つめていると、自分のすべてを委ねられる信頼の思いが涌き起こります。
「私は歩かせてもらっているのだ。」という感謝の念が巡礼の決意と共に感じられます。その表現方法としてゴミを拾いながら古道を歩くことにしていました。
ゴミを拾うことは、自身の一番醜く、最もダークな部分を掻き集め、光の下へと送り出す心の作業でもあります。
それでも、明らかに、あるいは敬意というものを全く持たず放ったのであろう飴の小袋が幾つも古道にあるのを見つけた時、私は軽く舌打ちせずにはいられませんでした。
生活路としても使われる古道で売られていた飲料の缶が、丁度飲み終わるであろう地点にバラバラと転がっていたり、ご丁寧なことに石碑の後ろに立てられているのを拾い上げながら、「F★★K」とつぶやかずにはいられませんでした。
一番栄えた参詣道である中辺路は、幹線道として機能もしていました。山と言っても現在車道として使われていたり、車道に交差している区間もあります。
強く雨の振り付ける中、ゴミを見つける度に17KGのバックパックを背負いながらしゃがんでは立ち、袋に入り切らなくなったゴミを両手に抱えながら歩いていました。
思いの外多い、古道に捨てられたゴミ。
車から投げ捨てられたゴミ、ゴミ、ゴミ。
喰い散らかしたおにぎりやパンの袋、空缶の入ったボロボロのポリ袋が車道脇に転がっていました。
Fワードを叫ばずにはいられませんでした。
前日から続く雨に、湿ったテントや寝袋で荷物は更に重く感じられます。大きな買い物袋一杯のゴミを、どうにか抱えながら歩いていました。
その量の多さにショックを受けていました。捨てる人への怒りをヒタヒタと感じていました。
世界遺産なのだから、聖地なのだから、歩く人々のモラルが高くあって欲しいという期待を踏みにじられた動揺。(言葉にするとスゴいですね。笑)
理解出来ない、したくもない行動をする人々への反感。
自分の中にある混沌とした部分が呼び起こされます。
雨は、すべてを浄化するように降っていました。
雨が降ることは分かっていました。
世界にある惨状、悲しみ、怒り、そして自身の内なる混沌と向き合うために歩く意思を固めていたのですからね。
自分の心が世界を反映する、という考え方があります。
心理学的に人間の心を分析すると、私達が普段考えたり感じたりしている顕在意識(表層意識)は氷山の水面上に見えている部分にあたります。
この水面上に見えている氷山は、全体の7分の一の大きさしかないそうです。
見えない水面下で氷山を支える大きな塊のように、心の奥深いところには潜在意識の層が広がっています。
自覚することが殆ど無いものの、私達の行動や考え方に強く影響を与える潜在意識。
この潜在意識のさらに奥深いところには、超意識といわれる領域があるとトランスパーソナル心理学では定義しています。
超意識。集合意識とも呼ばれています。
いわゆる自我を超えた、サマディ(三昧)の状態が経験する意識の領域です。
集合意識の領域には、自分と他者の間を隔てる境界線はありません。
すべてはひとつです。
つまり、集合意識の領域では私の考えや行動はすべてに影響を及ぼし、またその逆に世界に起こる出来事や人々の感情も、例えそれを知ることがなくとも私に影響を与えているのです。
この考え方は突き詰めると、世界のすべての出来事に責任を持つ、という責任感を成長させてくれます。
クンダリーニヨガは『Yoga Of Awareness / 目醒めのヨーガ』と呼ばれています。
ヨガの経験の長い方々は、ヨガを通し自身に対する様々な「気づき」が増えることを実感していることと思います。
始めは身体の様々な変化であったり、小さな筋肉や骨の動きだったりもすることでしょう。
身体を動かすことで得られる壮快感、また緊張のほぐれから、本来持っている自分自身の力や能力を覇気することができます。
これまでの「限界」を超え、あらゆる感覚が広がり、そのことから得るものが多くなるのです。
ヨガの練習は、時間や空間に縛られた限界を超える実体験を与えてくれます。
クンダリーニヨガが『目醒めのヨーガ』と言われる由縁は、この体験の中で自身の深い深いところにある、本当のアイデンティティとの一体感を培うことができるからです。
本当のアイデンティティ。それは 魂 です。
小さな自分である自我を超えた、高次の自身です。
ヨガの生まれたインドの哲学では、ブラフマン(梵)という創造する意識が宇宙にはあります。
宇宙が存在する根本原理とされています。
私達人間ひとりひとりは、この創造する意識であるブラフマンの小さなエネルギーです。
クンダリーニヨガの哲学的な目的は、個人的小さなブラフマンを宇宙的ブラフマンへと昇華させることにあります。
梵我一如と訳されています。永遠の至福に到達した状態です。
なんだか分かりにくいですよね。
つまりは、創造のエネルギーであるクンダリーニにしっかりと繋がった状態で生きるということだと私は感じています。
内なるエネルギーは、自分自身を信じる力を高めます。
真理に基づくことで、新しい可能性や出来事を引き寄せ、現実というものを拡大します。
限界というものは自分が作っています。
本当の現実は、私達が創りあげてゆくものです。
今この時に起こることに細心の意識を配り(Mindfulness)、思いやりを持った心からの行動をし続けることで、現実を変えてゆくことが私達はできます。
この生き方は、魂との一体を生きる、ということです。
クンダリーニヨガの練習は直感力を育てます。
インナーガイダンスとも言われる直感は、私達の内なるGSPです。魂の導きです。
6日間歩き続ける中で、たくさんの美しい山や樹、草花に出会いました。
思いやりと大きな心でもって助けてくれる、たくさんの人々にも出会いました。
ひとりテントを張り、真っ暗になるまで外に座り、出会った美を思い出しながら、ぼぉっと夜の帷が落ちてゆくのを眺めるのが一日の締めくくりでした。
そして、真の暗闇を見つめながら、自分自身が光であることを感じていました。
出会った人々ひとりひとりは、私の光でした。
美しい山や樹、草花は、私の光でした。
光は魂を表しています。
闇と光はコインの裏表の様な関係でも、陰陽のマークの様に存在しているのでもないと確信しました。
光は闇の中にある。
私達はただ、それに目醒め、輝かせてゆくのみなのです。
落ちていた缶飲料の蓋を拾おうと腰を下ろすと、木の根っこが蓋の指をかける輪に絡まっていました。
苔が蓋の半分以上を覆い隠しています。
私達人間の作り出すものなんて、彼らにとっては屁でもないものなんだ。
改めて思いました。
ゴミを落として歩く人にも、争いを続ける人にも、これ迄以上の光を送り続けられると思いました。
一番光を必要としているのは、彼らなのだから。
起こるすべてに感謝し、一足一足すべてを意識しようと歩き続けていると、すべては調和に満ち、完璧なタイミングでその場へと導かれてゆくのが分かりました。
生命の根源である自然と宇宙の一部としての自分を経験させ続けてくれる旅でした。
私はこの大きな宇宙の片隅にある小さな世界で、この旅のように自分の人生を続けてゆこうと思いました。
世界の美しさに感謝と愛を表現しながら、光である自分を生きよう。
そう決意を新たにしました。
光の仲間とどこまでもゆけるように☆
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