2016年6月21日火曜日

天の巡り、地の巡り 〜 クンダリーニヨガの歌う瞑想 * キルタン クリヤ 〜

一年で最も光が満ちる夏至の日。陽の気が極まりて陰へと転じる、極まりの頂点です。

地球からみる太陽の高度は、頂点である90度の角度からこの日を境に徐々に傾いてゆきます。

太陽の熱が大地を暖め、天の巡りを追いかけるように夏の暑さが到来し、植物達の成長が盛んとなる季節が巡ってきます。


こんな天の巡りと大地の営みを、自身の心や日常の生活の中で意識して月日を送っていると、外面と内面の原動力を整え、活発にしてくれるヨガと瞑想の原点は、こうした宇宙や自然のサイクルにあると実感させられます。



自然界はもちろん、あらゆる経済活動の中でも行われている、次の段階への準備。それは、いつも内面で静かに始められています。


夏至から大地の気が頂点へと向う大暑は、活動的に過すことが心地よい季節。心も体も、山へ海へと外へ向って広がってゆきます。

あらゆるものが色鮮やかに、そして情熱的に写ります。

しかし外面的には陽の気が溢れ、活動が盛んになっていても、内面では陰の力が働いています。

陰の力は静かに厳かに、内へと内へと働くことで活動を支えています。



自身の心の内側に眠っているものを探求することは、自分の内なる力に働きかけることです。自身の表面的な活動を更に深め、未来への発展と次へのサイクルにつなげてくれます。



鮮やかな色に輝く、その輝きの影を見いだすように。情熱の光の奥に広がる静けさを見つめるように自身の影を浮き彫りにすることで、私達は更に輝やくことができます。



私にとって瞑想することは、陰の力の働きにアクセスすることであると同時に、天の巡りと地の営みのリズムに自身を共鳴させてゆくことでもあります。





天と地の巡りは、万物を生み育てます。まさに創造のサイクルとも云えるものです。


この「創造のサイクル」を表すマントラを唱える瞑想が、クンダリーニヨガに伝わっています。



キルタン クリヤと呼ばれる歌う瞑想です。キルタンとはサンスクリット語で、まさに「歌う」という意味があります。



メンタルのバランスを整え、集中力を磨き、ストレスに対する耐性を高めると共に、脳神経の情報伝達を円滑にする瞑想です。

アルツハイマー患者の記憶力回復と向上に効果が高いことが、米国の臨床の現場で研究されている瞑想法です。


声を出しながら指を動かすことで、口蓋にある84の経絡ポイントと指先にある経絡を刺激することから脳内全体に働きかけ、神経伝達物質を補給する効果があることが明らかにされています。



数あるクンダリーニヨガの瞑想の中でも、特に重要とされるキルタン クリヤの実践方法を紹介しますね☆








キルタン クリヤ(Kirtan Kriya)⁂ 



前回ご紹介した練習の終りに唱えるマントラ『サット ナム(Sat Nam)』を構成する5つの音、「S、T、N、M、A」から成るマントラを唱えます。



『SAA     TAA     NAA     MAA』(サー ター ナー マー)




「私は真実である。」というクンダリーニヨガで一番核となるマントラの原子的音であることから、種のマントラと呼ばれています。

それぞれ、次の様な意味を示します。



SAA * 「永遠」「宇宙」「始まり」「∞」

TAA * 「生命」「存在」

NAA * 「死」「変化」「変容」

MAA * 「生命の復活」「再生」




永遠なる宇宙より、全ての生命と私達の存在は始まります

生命も万物も変化し続けるもの、そしてすべてが死という変容を迎えます


死を越え、生命は受け継がれます


永久の喜びに導かれ、生命が再び始まります







このマントラを唱えながら、ムードラ(手印、手を組む)を動かします。

SAA * 親指と人差し指の先をしっかりとつける

TAA  * 親指と中指の先をしっかりとつける

NAA * 親指と薬指の先をしっかりとつける

MAA * 親指と小指の先をしっかりとつける


3秒から4秒間に一サイクルを唱え、再びSAAへと戻り、親指と人差し指の先をつけムードラを動かすことを繰り返します。





ここにビジュアルが加わります。

種のマントラを唱えることは、絶え間ない宇宙の気の流れを、意識的な働きかけで体内への流入を促すことです。これを視覚化により、更に促進させます。


宇宙からのエネルギーが、頭の天辺にあるクラウンチャクラから入り、頭の中心を通り、額の中央にある第三の目のチャクラからオーラへ向って流れるのを想像します。


ちょうどローマ字の「L」字状に、宇宙の気が流れるのをイメージします。

松果体と脳下垂体のゴールデンコードと呼ばれるコネクションが刺激されてゆきます。






唱え方は、3つのパターンに変化します。

1 声をしっかりと出し唱える * 人間の声(世界の物事への気づきを示します)

2 ささやき声で唱える * 愛する人の声(調和への熱望の経験を示します)


3 心の中で唱える * 神聖なる声(無限大の内なる響きを示します)





マントラ、ムードラ、ビジュアル、声の変化を組み合わせ、11分間から2時間半まで時間を伸ばし瞑想することができます。


30分間の瞑想では、1の声を出すパートを5分間。2のささやき声を5分間。3の心の中で唱えることを10分間。

そして、2のささやき声で唱えることを5分間。1の声を出すことを5分間行います。



瞑想時間は、上記の各パートの時間比率を同じように合わせ、短くしたり伸ばしたりしてください。




瞑想の最後は深く息を吸い込み、吸い込んだ息を最長1分まで、保てるだけ保ちます。

そしてゆっくりすべての息を吐き切ります。


次の吸い込む息と共に両腕を天高く伸ばし、思い切り両腕を振ります。たっぷり腕から身体を振動させ、徐々に沈めてゆき、瞑想を終りにします。





瞑想を始める前と閉じる際には、始まりのマントラと終りのマントラを必ず唱え、ご自分の波長を準備し、最大限の効果を受けとれるようにしてくださいね。





Have Great Journeys!





11分バージョンの音楽です☆





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Nirinjan Kaur11分バージョン

Mirabai Ceiba 30分バージョン




2016年5月1日日曜日

魂 〜 スラウェシ島トラジャの旅でクンダリーニヨガを思ふ 〜

島の北部を赤道が横切るインドネシア諸島中部に位置するスラウェシ島は、奇妙な形をした島です。まるでアルファベットのKか、ちょっとシャレたXの字のように見えます。

横を向いた首長人間か、宇宙人か、といった趣も感じられます。(私的に 笑)



4峰の3000メートル級の山々を含め、11の活火山があるスラウェシ島の自然は複雑多様。地質学的にも、生物、民族学の分野に於いても、最も変化に富む島として知られているそうです。( 参考:スラウエシ島の歴史と民族 



この島の西南部の山中には島が創世してまもなく、中国南部より舟でやってきたという昔話を持つ祖先の末裔(ガイドさんに因る)、トラジャ族の民が住んでいます。


土地の言葉でタナ・トラジャ(Tana Toraja )、”山の民の國”を意味するトラジャ県は面積の50%を標高1000メートル以上、12%を2000メートル以上が占め、最高峰は3083メートルに達する文字通りの山岳地帯です





舟で渡来した民族の証なのか、トラジャ族の人々の多くは舟を思わせる住居に暮らしています。








竹をふんだんに組み合わせ、精緻な彫刻が施された伝統的な舟型の家はトンコナンと呼ばれ、その3分の一の大きさの米蔵と対になり、それぞれの屋根が南北を示すよう向かい合って建てられています。





イスラム教徒が国の大半を占めるインドネシアにありながら、山に囲まれた陸の孤島とも云えるトラジャで、人々はアニミズム的世界観に基づく風習と先祖崇拝の伝統を長きに渡り伝えてきました。

そして1913年にキリスト教が伝導されると、これらが融合された信仰を確立していったのです。









トラジャの人々は「死を盛大に祝う」といいます。時に1週間以上に渡って繰り広げられる葬儀の資金を調達するため、時として準備に数年間かけることもあるそうです。


その間、人々は「死者と共にトンコナンの中で一緒に暮らす」とか。






死者は死体が腐敗しないようにホルマリン漬けにされます。

そして、「病人」と呼ばれ、トンコナンの南側の部屋に寝かされて、生きている時とまったく同じ様に食事も三食きちんと運ばれるそうです。







葬儀は一代イベントです。トラジャ各地はもとより、他県や海外で暮らす一族、友人、知人、知り合いが大集合します。

結婚式は断わることができても、葬式は断ることができないとか。


縁組みから新しいビジネスまで、葬儀は豊富なチャンスの社交場ともなるそうです。








そんな中、死者の弔いに水牛が生贄として捧げられるとか。

身分の高い家の葬儀では、百頭以上の水牛の頭が供えられるとのこと。そして人々に供する伝統料理に欠かせない豚が、宴会の脇で次々に絞められてゆきます。。







長い葬儀が終ると納棺です。近年、棺はそのまま大きな墓に納められる様です。沖縄のお墓に少し似ています。


歴史的には岩のくぼみや洞窟に、棺や白い布に包んだ死体を安置していました。トラジャ県各地にこうした墓所が残されています。

棺の周囲に故人達を模した木の人形が幾つも並べられ、古い骸骨がそこかしこに安置されている洞穴もあります。










このトラジャの独特な風習を実際に見たいと思ったのが、スラウェシ島北部での皆既日食の旅へ出る一番のきっかけでした。




トラジャの人々は魂の存続を信じ、死は向こうの世界への魂の旅立ちである、という考えがこの壮大な葬儀に込められていると思い込み(笑)、彼らの風習、習慣からそれを検証したいと思ったのです。



結果、そこまで深くトラジャの人々に関わることはできませんでしたが、ホテルにたむろするガイドさん達は一様に、魂の存在を肯定していました。


そして自分達の風習や習慣を誇りにしているのが分かりました。









ヨガの哲学には、「神は私達自身の内に存在する」という概念が根底にあります。



「神」というと一般的には、超越的な力を持つ人格的存在として信仰や信心の対象とされていますね。人知を超えた威力や、人間に禍や福を降ろす霊的存在と捉えられてもいます。

つまり、信じるという行為を通して「神の存在」を確立しているのです。



ヨガでは内面の気づきを通し、「無限性の実在」を確立します。それは内なる神の存在に目醒めるということです。

ここで私達は、「神の共同創造主」である自身を明確に自覚するのです。



ヨガの練習や瞑想を通し、私達の個体の魂は絶対的な至高の魂との融合を経験することができます。

ヨガの八支則にあるサマディ(三昧)の境地にある状態でもあります。


宇宙に蔓延するエネルギーとの一体を味わい尽くし、宇宙意識との統合の極致にあるサマディで魂はひとつとなります。









サマディへ至る第一歩が、自分の内なる神である魂への目醒めです。


魂は私という存在の核であり、存在の基礎となる原子核的エネルギーといえます。




"私"とはなんでしょうか。


母、父、娘、息子、先生、生徒、営業マン、エンジニア、社長、課長、医者、看護師、アナウンサー、セラピスト、経営者、アーティスト、、、、、


"私"をつくりあげている肩書き、キャリア、持ち家、資産、信仰、体型、健康、年齢、、、、、、




それは、本当の"私"なのでしょうか。









それらはすべて、"私"の有限な条件や状態でしかありません。

私達は有限な肉体を与えられ、有限な条件と状態を身に纏い生きています。



しかし、有限な条件と状態をすべて取り除いても、"私"は存在します。



" 〜である自分"、脱ぎ捨ててみましょう。すべての肩書き、条件、状態をひとつひとつ自分から外すことを、目を閉じてイメージしてみてください。

それらが無くなることは寂しくて、痛ましくて、穴ぼこが空いた様に感じるかもしれません。



それらは外的なものです。外面にあるものが削ぎ落とされると、内なるものが現れてきます。自身の心と向かい合うことで、内面の深さと広がりを見いだすことができます。


外的な条件が無くとも、"私"は確実に存在している。


それは私達の核に、無限性が備えられているからです。



私達の一番深いところにある魂が、"私"を存在させているのです。



私達の心の奥深くにある"私"。


「真我」と呼ばれる「本当の自分」です。









魂は心を通してその存在を表現します。

魂は生きとし生けるすべてのものとひとつであるという真実に、私達を目醒めさせます。



人からの真心こもった親切、助け、許し、無償の愛、、、、、


私達は心の交流と広がりを通して魂を経験しています。



美しい絵、彫刻、建造物、音楽、踊り、セラピー、、、、


私達は美を創造し、表現し、分ちあうことで魂を経験しています。



私達は五感によっても魂を経験し、また栄養を与えることができます。


心のこもった美味しいごはん、甘美な花の匂い、世界の美を観る、赤ちゃんのほっぺたの感触、心に響く音を聴く、、、、、



小さな自分であるエゴを超えた魂の経験です。










ヨガや瞑想などを通して魂は、圧倒的な光、時間と空間の超越、莫大なエネルギーの内蔵感、途方も無い恍惚感、祝福に包まれるといった体感を伴い、経験されます。


ただそこにあることを受け入れる静かな心地よさや、静寂感、ここにただあるという安心感、そして、何か自身の内なるものがすべてを知っているという穏やかさとしても経験されます。









小さな自分のエゴは様々な外的影響に翻弄されがちです。


魂と伴にある時、私達はその外的影響にしなやかに立ち向かうことができます。


私達は起こる物事をコントロールすることはできませんが、それに対しどう振る舞うか、どの様に心が反応するのかをコントロールすることができるのです。


魂とのつながりは、このコントロール力を強固なものとします。



己の力で立ち、クリエイティブに、ニュートラルにあり続ける、そして生きるための核。それが魂です。








この内的存在である魂にとって、身体は魂の神聖なる器となります。ヨガ的言葉で云えば、身体は魂のお宮です。


身体は魂の乗り物である、なんて表現もよくされていますね。



例え外的存在である器や乗り物、お宮やお寺が崩れ去っても、内側にある魂は永遠に存在します。


ヨガの哲学の根底にある概念です。



この概念は、古代ヨギィ達の超越した精神と次元を超えた視野からの洞察であり、肉体的経験からの鑑識から生まれたものです。




クンダリーニヨガの練習は、魂との一体を生きる技術を磨くことだと私は感じています。

そしてその中で、死は生きることの内にあるという感覚が育てられてゆく様に思われるのです。









クンダリーニヨガでは練習の始まりと終りに必ず唱えるマントラがあります。



Ong  Namo     Guru  Devu  Namo              オン ナモ   グル デヴ ナモ


私は創造する意識に敬意を示し、この意識につながります

内なる智慧に敬意を示し、私の内にある神聖なる師につながります




開始のマントラは、ラジオの周波数を合わせる様に自分の意識のチューニングを練習に向けて整えるために唱えます。





練習を閉じるマントラは、「種のマントラ」と呼ばれています。



Sat   Naam             サット  ナァム


サットは「真実」、「真理」、「実在の現実性」を意味します。


ナァムは「己」、「アイデンティティ/自我の統一」という意味です。



真実が私である。私という存在は真実である。



種はその植物が完全に大きく育つためのすべての智慧と情報を内包しています。


つまり、真実が具象化するためのすべてが凝縮されているのが種です。



私は真実である。真理が私のアイデンティティである。



このマントラを唱える時、私は自分が何者であるかということを全身で意識します。


すべての外的な自分が削ぎ落とされた状態に還ってゆくよう。



体の内より心地よい静けさが広がり、小さな私を包んでくれる様に感じるのです。




Sat Naam







2016年3月30日水曜日

祈り 〜 インドネシア皆既日食の旅でクンダリーニヨガを思ふ 〜 

地球から見て、太陽と月が重なる新月の日に起こる日食。


年に二回程、世界のどこかで起こる日食は、視直径といって地球から見える太陽と月の大きさの直径が、太陽より月が大きく映る時にのみ皆既日食となる。

これは地球の廻りを公転している月が、太陽と地球の間に入ることで出来る月の陰が地球に達することで生じる現象だ。

月の陰が地上に降り太陽をすべて覆い隠すのは、ほんの限られた帯状の地域だけ。


でも、地球のどこかで、約1.33年に1度の頻度で、皆既日食は起こる。


この皆既日食を追いかける人達がいる。

" Total Eclipse Chasers " なんて呼ばれたり、自称していたりする。




宇宙の片隅にある太陽系で、この宇宙に生きている実感を味わい、今この時にある濃厚さを経験すると人は謙虚になる。

感謝の想いがとめどなく溢れ、それを誰かと分かち合いたくなる。




実際、皆既日食はとことん美しい。

太陽が暗闇から現れる様は神々しく、心が震える。

立ってなんていられない。その光に腰が砕けそう。



太陽に月が完璧に重なり合っている時、太陽の発するコロナが白く光り輝く。

時折大きさが変わるのは、フレアが発生しているからなのだろうか。








光の粒子が紡ぐのは、聖なる幾何学模様。


見つめていると月が覆い隠している真っ黒な円の中には、生命の花(geometry of Flower of Life)が瞬いているようだ。

森羅万象を表す生命の花。

この宇宙にあまねく全ての生命の基にある幾何学的パターン。



太陽は生命のマトリックス。

太陽を通し、宇宙のマトリックスへと繫がる。





Gayatri Mantra by Deva Premal with the Flower of Life




そんな皆既日食は、晴れていなければ経験できない。


今回の皆既日食が起こるインドネシアのスラウェシ島北部は雨期の真っ只中。当日の天気予報は、曇り時々雨。

到着した日から1日に一度はスコールが降っていた。



きっと大丈夫。あの美しい宇宙の現象を私達は見られるに違いない。


3度目の皆既日食は独り、全身で経験しようと決めていた。今の自分に必要なことだから、宇宙は晴天を贈ってくれる。



集まった友達も出会う人々も、皆キラキラ美しく愛に満ちている。晴天を願い、祈っている。見られない訳がない。



その思いは到着2日目、皆既日食2日前の午後に降ったスコール後、ダブルレインボーの出現で更に強くなった。


虹は、子供の頃から私にとって幸せの予兆だから。







日食の前夜、インドネシアのバリ島では毎年、3月朔日は「静寂の日」として人々は1日中電気も火も使わず、家の中で静かに過す日であることを聞いた。

バリヒンドゥー教はサカ暦の新年だという。

ニョピと呼ばれる祝日になり、この日バリ島内すべての交通機関、そして経済活動も丸一日お休みとなる。



新月のお正月に、光を使わず家の中に籠り静かに家族と内なる光を感じる日なんて、すてきだなぁ。

島をあげて徹底的に働かないなんて、すてき過ぎる。笑


年に一度くらいはこうして時間の流れをリセットすることは、世界的にも必要なんぢゃないかなぁ。


なんて最先端。なんてありがたい祝日なんだ。


そう思って微笑んでいたら、さらに素晴らしい話が続いた。



バリ島の祈祷師達はニョピが皆既日食と連動していることから、この地帯が晴天となることを祈っているというのだ。

それに応じ、スラウェシ島の祈祷師達も祈りを捧げているという。




皆既日食の朝は、これまでにない大快晴だった。そしてこんなにも晴れ渡る朝は2週間のスラウェシ島滞在で、この時だけだった。




まるで皆の願いや想い、そして祈りが天へ昇り、私達みなが宇宙の生命の源へつながり、太陽から祝福されているかのようだった。








祈り。


祈りは願いや望みを叶えてもらうためのものだろうか。

神仏にご加護や救済を請う行為なのだろうか。




私の父は信心深い仏教徒の祖母に育てられたというのに、結婚前カトリックに傾倒していた。(超大酒飲みであることは、母と神父様に隠していたらしい。笑)

そのお陰で私達子供は生まれると自動的に教会で洗礼を受け、七五三参りの代わりに白いドレスを着させられ(これがかなり似合わなかった。。)、初聖体のミサでお祝いをしてもらった。


「主の祈り」を唱えることは私とって、自然に身に付いた習慣だった。


モノを考えるようになった思春期、この祈りは「天にいる父なる神」への賞賛と、願いと救済を求めているように私には感じられた。


その頃、そもそも日本人は森羅万象すべてに神が宿るという感覚を持ち合わせていたので、宣教師が”唯一の神”を説いた際にも、その感覚で”神”を捉えていたという趣旨の内容が書かれた本を読んだ。


自分が捉えていた神に対する「何か偉大なるもの」という感覚の原点に気づかされた。


願いや罪の救済の文句に納得がいかなくなっていた私は、唱えることを止めてしまった。



ただ、この宇宙を司る何か偉大なるものへ平和や幸せを祈ればいい。そう思った。





父を突然亡くした17年前、思いのやりどころが無くひたすら山の中を歩いた。失意と絶望にある母に寄り添い、会話もなくただただ歩いた。


草花や木、空や海だけが、抉られた心臓を動かしてくれるようだった。


歩くことは私にとって祈りだった。


家族以外、誰にも会いたくなかった。悲しみと自分への怒りを感じることしかしたくなかった。

そんな時、友人が般若心経の小さな経本をくれた。


死の数年前より仏教に帰依しているかのようだった父は、般若心経の言葉を思わせる短歌を残していた。



唱えていると心が内へ内へと向ってゆく。感情を超えた心の領域へ導かれるのだ。


ただただ歩くことに似ていた。










祈りの背後にあるコンセプトとは、自分自身の見知らぬ領域を開拓したいという衝動だと、ヨギ・バジャンは述べています。




エナジーヒーリングや身体を超えた領域について学んでいた時には、”小さなエゴである自分を何か偉大なるものに委ねる”ような祈りを私は唱えていました。


そうすることでエネルギーや魂の純度を高めることができる、と感じていたからです。




ハワイのシャーマン的役割を果たしていたカフナの智慧と教えの一番重要な礎となる普遍的法則は、「家族」です。

すべては慈悲的な調和のムスビより始まります。


カフナボディワークの練習で、身体を極限まで使い自分の中心にあることを目指すのは、その慈悲的な調和のリズムに身体の動きを合わせてゆくことでした。


そのリズムに乗り、自分の中心から動くことは呼吸の力なくしては成し遂げられません。


呼吸そのものが祈りであることに気づかされました。



すると、生きることは祈りそのものなのだと感じるようになりました。





ヨギ・バジャンの言葉は続きます。




「祈りの基本的テーマは、自身の未知の領域を今ある自分の領域に利用するためのものだ。

未知なる領域と知り尽くした領域が自身の中でひとつとなる時、神は生きる。


この二つの領域が分離している時、神は休止状態にあるのだ。」






祈りはこの二つの領域の伝達道具と云えます。


未知なる領域というのは予備に蓄えられている力です。

祈りはその未知なる領域からのエネルギーを、マインドを通し開拓することに他なりません。

自身の祈りの力だけがこの伝達を可能とするのだと、ヨギジは述べているのです。





「何かとてつもなく偉大なるものは誰もが感動する。

空を青とさせたもの。雲を創りしもの。それが神ならば、自然と感謝の思いが涌き起こる。


神への感謝は祈りだ。



祈りは神の無限性への感謝だ。そしてその神の無限性とは、私達ひとりひとりの未知の領域のことなのだ。



果てしない広がりへの感謝と創造性への感謝が、現存の自分の領域と未知なる領域の間をつなげるのだ。」






自身の祈りの力とは、感謝なのですね。




私達は色々な力を兼ね備えていますが、感謝は最もパワフルな力と云えます。




二つの領域をつなげる祈りは練習あるのみ。

これは意識的に生きる、ということでもあるからです。


顕在意識と潜在意識という言葉に、この二つの領域を置き換えるとわかり易いですね☆




私にとってクンダリーニヨガは、意識的に生きることの練習でもあります。

生きることは祈りそのものであるという感覚を、現実のコンセプトへと発展させてくれたツールでもあります。






「自分自身を頼る練習が必要だ。自身であることを学ぶのだ。波動を高めることを学ぶのだ。

それは誰にでも学び、練習することができる。



自身の力を持っていなければ、他のどんなパワーも機能しない。



一番純粋なパワーは自身の魂の力だ。




魂の波動が心から放たれるようになりなさい。



それはあなたの祈りなのだ。」




- ヨギ・バジャン





祈りは生きることを変容させる力がある。私にはそう思われるのです☆







旅のつれづれ、魂のゆくえを求めて続きます。