横を向いた首長人間か、宇宙人か、といった趣も感じられます。(私的に 笑)
4峰の3000メートル級の山々を含め、11の活火山があるスラウェシ島の自然は複雑多様。地質学的にも、生物、民族学の分野に於いても、最も変化に富む島として知られているそうです。( 参考:スラウエシ島の歴史と民族 )
この島の西南部の山中には島が創世してまもなく、中国南部より舟でやってきたという昔話を持つ祖先の末裔(ガイドさんに因る)、トラジャ族の民が住んでいます。
土地の言葉でタナ・トラジャ(Tana Toraja )、”山の民の國”を意味するトラジャ県は面積の50%を標高1000メートル以上、12%を2000メートル以上が占め、最高峰は3083メートルに達する文字通りの山岳地帯です。
舟で渡来した民族の証なのか、トラジャ族の人々の多くは舟を思わせる住居に暮らしています。
竹をふんだんに組み合わせ、精緻な彫刻が施された伝統的な舟型の家はトンコナンと呼ばれ、その3分の一の大きさの米蔵と対になり、それぞれの屋根が南北を示すよう向かい合って建てられています。
イスラム教徒が国の大半を占めるインドネシアにありながら、山に囲まれた陸の孤島とも云えるトラジャで、人々はアニミズム的世界観に基づく風習と先祖崇拝の伝統を長きに渡り伝えてきました。
そして1913年にキリスト教が伝導されると、これらが融合された信仰を確立していったのです。
トラジャの人々は「死を盛大に祝う」といいます。時に1週間以上に渡って繰り広げられる葬儀の資金を調達するため、時として準備に数年間かけることもあるそうです。
その間、人々は「死者と共にトンコナンの中で一緒に暮らす」とか。
死者は死体が腐敗しないようにホルマリン漬けにされます。
そして、「病人」と呼ばれ、トンコナンの南側の部屋に寝かされて、生きている時とまったく同じ様に食事も三食きちんと運ばれるそうです。
葬儀は一代イベントです。トラジャ各地はもとより、他県や海外で暮らす一族、友人、知人、知り合いが大集合します。
結婚式は断わることができても、葬式は断ることができないとか。
縁組みから新しいビジネスまで、葬儀は豊富なチャンスの社交場ともなるそうです。
そんな中、死者の弔いに水牛が生贄として捧げられるとか。
身分の高い家の葬儀では、百頭以上の水牛の頭が供えられるとのこと。そして人々に供する伝統料理に欠かせない豚が、宴会の脇で次々に絞められてゆきます。。
長い葬儀が終ると納棺です。近年、棺はそのまま大きな墓に納められる様です。沖縄のお墓に少し似ています。
歴史的には岩のくぼみや洞窟に、棺や白い布に包んだ死体を安置していました。トラジャ県各地にこうした墓所が残されています。
棺の周囲に故人達を模した木の人形が幾つも並べられ、古い骸骨がそこかしこに安置されている洞穴もあります。
このトラジャの独特な風習を実際に見たいと思ったのが、スラウェシ島北部での皆既日食の旅へ出る一番のきっかけでした。
トラジャの人々は魂の存続を信じ、死は向こうの世界への魂の旅立ちである、という考えがこの壮大な葬儀に込められていると思い込み(笑)、彼らの風習、習慣からそれを検証したいと思ったのです。
結果、そこまで深くトラジャの人々に関わることはできませんでしたが、ホテルにたむろするガイドさん達は一様に、魂の存在を肯定していました。
そして自分達の風習や習慣を誇りにしているのが分かりました。
ヨガの哲学には、「神は私達自身の内に存在する」という概念が根底にあります。
「神」というと一般的には、超越的な力を持つ人格的存在として信仰や信心の対象とされていますね。人知を超えた威力や、人間に禍や福を降ろす霊的存在と捉えられてもいます。
つまり、信じるという行為を通して「神の存在」を確立しているのです。
ヨガでは内面の気づきを通し、「無限性の実在」を確立します。それは内なる神の存在に目醒めるということです。
ここで私達は、「神の共同創造主」である自身を明確に自覚するのです。
ヨガの練習や瞑想を通し、私達の個体の魂は絶対的な至高の魂との融合を経験することができます。
ヨガの八支則にあるサマディ(三昧)の境地にある状態でもあります。
宇宙に蔓延するエネルギーとの一体を味わい尽くし、宇宙意識との統合の極致にあるサマディで魂はひとつとなります。
サマディへ至る第一歩が、自分の内なる神である魂への目醒めです。
魂は私という存在の核であり、存在の基礎となる原子核的エネルギーといえます。
"私"とはなんでしょうか。
母、父、娘、息子、先生、生徒、営業マン、エンジニア、社長、課長、医者、看護師、アナウンサー、セラピスト、経営者、アーティスト、、、、、
"私"をつくりあげている肩書き、キャリア、持ち家、資産、信仰、体型、健康、年齢、、、、、、
それは、本当の"私"なのでしょうか。
それらはすべて、"私"の有限な条件や状態でしかありません。
私達は有限な肉体を与えられ、有限な条件と状態を身に纏い生きています。
しかし、有限な条件と状態をすべて取り除いても、"私"は存在します。
" 〜である自分"、脱ぎ捨ててみましょう。すべての肩書き、条件、状態をひとつひとつ自分から外すことを、目を閉じてイメージしてみてください。
それらが無くなることは寂しくて、痛ましくて、穴ぼこが空いた様に感じるかもしれません。
それらは外的なものです。外面にあるものが削ぎ落とされると、内なるものが現れてきます。自身の心と向かい合うことで、内面の深さと広がりを見いだすことができます。
外的な条件が無くとも、"私"は確実に存在している。
それは私達の核に、無限性が備えられているからです。
私達の一番深いところにある魂が、"私"を存在させているのです。
私達の心の奥深くにある"私"。
「真我」と呼ばれる「本当の自分」です。
魂は心を通してその存在を表現します。
魂は生きとし生けるすべてのものとひとつであるという真実に、私達を目醒めさせます。
人からの真心こもった親切、助け、許し、無償の愛、、、、、
私達は心の交流と広がりを通して魂を経験しています。
美しい絵、彫刻、建造物、音楽、踊り、セラピー、、、、
私達は美を創造し、表現し、分ちあうことで魂を経験しています。
私達は五感によっても魂を経験し、また栄養を与えることができます。
心のこもった美味しいごはん、甘美な花の匂い、世界の美を観る、赤ちゃんのほっぺたの感触、心に響く音を聴く、、、、、
小さな自分であるエゴを超えた魂の経験です。
ヨガや瞑想などを通して魂は、圧倒的な光、時間と空間の超越、莫大なエネルギーの内蔵感、途方も無い恍惚感、祝福に包まれるといった体感を伴い、経験されます。
ただそこにあることを受け入れる静かな心地よさや、静寂感、ここにただあるという安心感、そして、何か自身の内なるものがすべてを知っているという穏やかさとしても経験されます。
小さな自分のエゴは様々な外的影響に翻弄されがちです。
魂と伴にある時、私達はその外的影響にしなやかに立ち向かうことができます。
私達は起こる物事をコントロールすることはできませんが、それに対しどう振る舞うか、どの様に心が反応するのかをコントロールすることができるのです。
魂とのつながりは、このコントロール力を強固なものとします。
己の力で立ち、クリエイティブに、ニュートラルにあり続ける、そして生きるための核。それが魂です。
この内的存在である魂にとって、身体は魂の神聖なる器となります。ヨガ的言葉で云えば、身体は魂のお宮です。
身体は魂の乗り物である、なんて表現もよくされていますね。
例え外的存在である器や乗り物、お宮やお寺が崩れ去っても、内側にある魂は永遠に存在します。
ヨガの哲学の根底にある概念です。
この概念は、古代ヨギィ達の超越した精神と次元を超えた視野からの洞察であり、肉体的経験からの鑑識から生まれたものです。
クンダリーニヨガの練習は、魂との一体を生きる技術を磨くことだと私は感じています。
そしてその中で、死は生きることの内にあるという感覚が育てられてゆく様に思われるのです。
クンダリーニヨガでは練習の始まりと終りに必ず唱えるマントラがあります。
Ong Namo Guru Devu Namo オン ナモ グル デヴ ナモ
私は創造する意識に敬意を示し、この意識につながります
内なる智慧に敬意を示し、私の内にある神聖なる師につながります
開始のマントラは、ラジオの周波数を合わせる様に自分の意識のチューニングを練習に向けて整えるために唱えます。
練習を閉じるマントラは、「種のマントラ」と呼ばれています。
Sat Naam サット ナァム
サットは「真実」、「真理」、「実在の現実性」を意味します。
ナァムは「己」、「アイデンティティ/自我の統一」という意味です。
真実が私である。私という存在は真実である。
種はその植物が完全に大きく育つためのすべての智慧と情報を内包しています。
つまり、真実が具象化するためのすべてが凝縮されているのが種です。
私は真実である。真理が私のアイデンティティである。
このマントラを唱える時、私は自分が何者であるかということを全身で意識します。
すべての外的な自分が削ぎ落とされた状態に還ってゆくよう。
体の内より心地よい静けさが広がり、小さな私を包んでくれる様に感じるのです。
Sat Naam
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